栄叡大師にインタビュー
唐編
西暦733(天平5)年に、第十次遣唐使船で入唐しました。
でも行った先は異国の地、そう簡単に良い戒師が見つかるわけもありません。
3年ぐらいしてまず、
その後、鑑真和上のことを知って出会うまでにさらに6年ぐらいかかりました。
おお、あとは、日本に来てもらうだけですね!
そうは問屋が卸さないのです。
お弟子さんを日本にと、お願いしたのですが、日本に行くのは、海を渡ることが危険なだけでなく、勝手に出国できないという法律の壁もあって、誰も日本に行こうという弟子は現れなかったのです。
ですが、鑑真和上自らが、「行く」とおっしゃってくださり、「和上が行かれるなら是非に」と弟子21人が同行してくださることになりました。
そこで、渡日計画を立てることになりました。
遣唐使船で帰るわけにはいかなかったのですか?
遣唐使船に乗るには、遣唐使船が来ないといけないのですが、いつ来るのかわからない・・・
なので、自力渡日、つまり密航なのです。
前途多難なフラグが立ってませんか?
仰るとおり、多難でした。
そもそものルート選定ですが、朝鮮半島まで向かい、対馬・太宰府に抜けるルートは距離が長すぎるし、朝鮮半島の新羅とは仲が悪い。
このルートが使えれば安全面と確実性は高いのですが不可能でした。
そこで、今の上海から東シナ海をそのまま渡るルート、これを選択したのです。
そんな旅、大事なお師匠さんにさせたくない!!って思う人が絶対いそう!!
まさに、そんな弟子による密告で、第1回目の計画は頓挫、私も牢獄に入れられました。
よく無事にでてこられましたね。
2回目は?
2回目は、出航できたのですが沿岸で座礁してしまい失敗。
3回目は、鑑真和上を連れ去ろうとしているとの訴えで私が拘束されてしまいました。
4回目も弟子の妨害工作で出航前に拘束されました。
ふと思ったのですが、食料、船の費用はどうしたの?
そこは高徳な鑑真和上ですから、いろいろな場所での授戒や講義をすることでお布施を頂き、工面しました。
結構な時間がかかってそうですね。
鑑真和上にお会いしたのが742年、次の5回目が749年、すでに7年ぐらいかかってますね。
5回目はどうだったのですか?
5回目にして、初めて外洋にでることができましたが、遭難して遥か南方の海南島に漂着しました。
海南島って、ベトナムに近い南国リゾート地じゃないですか!
真逆ですよね!!
ええ、今では「中国のハワイ」と言われているようですね。
でも当時の海南島は、未開の島でした。
まず海南島から出発地の揚州に戻るだけで・・・
2,300km!?稚内から鹿児島のほうが近いよ・・・
歩いて戻るんですよね?
ええ、もちろん!
寄り道したところもいろいろあるので、最短ルートではないですが。
その途中、私は、病にかかってしまい、志半ばで端州の龍興寺にて生涯を終えました。
その後、753年、鑑真和上は遣唐使船にこっそり乗ることができ、6回目にしてようやく日本に到着することができました。
これで鑑真和上は、日本にて正しい仏法を広めることができるようになったのですね!
このような功績をもつ栄叡大師を紹介する動画「鑑真和上の心を動か した名僧 美濃出身 栄叡大師」を作成しましたので、ご覧ください。